信仰がなくても、お坊さんを呼ぶ理由
信仰がなくても、お坊さんを呼ぶ理由

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最近、葬儀の現場でこんな言葉を耳にすることが増えてきました。
「うちは信仰心がないんですけど、お坊さんを呼んでいいんでしょうか?」
あるいは、「仏教にはあまり詳しくないけれど、形式としてお経をお願いしたい」というお声もよく伺います。
こうした言葉の背景には、いわゆる「無宗教」や「宗教離れ」といった、現代社会の風潮があるのかもしれません。けれど、私はそれを単純に「信仰心がない」と切り捨ててしまうのは違うのではないかと感じています。
葬儀という場面では、たとえ普段は宗教を意識していない方でも、「しっかり送ってあげたい」「何かしてあげたい」といった自然な想いが湧いてきます。
そしてその気持ちをどのように表せばいいか分からないときに、宗教的な儀式やお経の力を借りようとされる――それはとても人間らしく、むしろ本来の“祈り”に近い姿ではないでしょうか。
仏教には「縁起(えんぎ)」という教えがあります。
私たちは、すべての物事が関係し合い、支え合いながら成り立っている世界に生きています。
この世に偶然はなく、出会いも出来事も、すべてがご縁によってつながっているのです。
信仰心があるかないか、ではなく。
お坊さんを呼んでくださったことそのものが、仏さまと何らかのご縁があったということ。
そう思うのです。
たとえば、手を合わせること。
たとえば、お焼香をすること。
それらは小さな動作かもしれませんが、人が「自分以外の誰かを想う」瞬間です。
仏教ではそれを「供養」と呼びます。
供養とは、亡くなった方のためだけでなく、残された人の心を整え、癒やし、再び歩き出すためのものでもあります。
信仰があっても、なくても。
人が亡くなるとき、私たちは“何か”に向かって手を合わせたくなる。
その“何か”を、仏さまと呼ぶかどうかは人それぞれですが、
「想いを込めて別れを告げたい」というその姿こそが、すでに祈りであり、信仰の芽生えなのだと私は思います。
だからこそ、私は安心してこう申し上げたいのです。
「信仰がなくても、大丈夫です。どうかご一緒に、想いを込めて、送りましょう」と。
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