おにぎりの思い出
塩おにぎり シンプルだけど
藻塩(もしお)でにぎっただけの、シンプルなおむすび。
具もなく、海苔も巻かず、ただ炊きたてのごはんに塩をふっただけ。
それなのに、どこかほっとして、しみじみと美味しいのです。
おにぎりという言葉には、「結び」の意味もあります。
人と人を、心と心を結ぶもの。
手でにぎるという行為には、どこか祈りにも似たあたたかさがあります。
🍙 母の手のぬくもり
母はこの何気ない塩おにぎりを、決して自慢しませんでした。
でも大人になった今だからこそ、そのありがたみが身にしみます。
お米を丁寧に洗い、たっぷりと水に浸してから、ざるにあげて水気を切る。
火加減を見極めながらガスでふっくらと焚き、しばらく蒸らす。
炊きたての、いや「激熱」のごはんを、手を水で濡らしながら、塩をつけて、
愛情をこめてにぎってくれたあの手のぬくもりを、今も思い出します。
ただの「塩おにぎり」なんかではなかったのです。
そこには、時間と手間と、何より深い愛情が込められていたのです。
⚖ 足りることを知る
仏教には「知足(ちそく)」という教えがあります。
「足るを知る」――必要以上を求めないことで、心に安らぎが訪れると説かれています。
具もなく、贅沢でもない塩おにぎり。
それでも「ありがたい」と思える心の中には、
すでに仏の教えが宿っているのではないでしょうか。
🙏 祈りのこもった手のひら
誰かが自分のためにおにぎりをにぎってくれる――。
それは、ただの食事ではなく、祈りと慈しみの証です。
日常のささやかな場面にこそ、
仏教の教えは息づいています。
母はもうこの世にはいません。
けれど、あの塩おにぎりの味は、今も私の中に生き続けています。
愛情をこめてにぎってくれた、あのぬくもりを思い出すたび、
心の奥がじんわりとあたたかくなります。
今日もまた、忙しい朝におにぎりをほおばりながら、
母への感謝の追慕とともに、ひと口ひと口、かみしめています。